わたしが旅を続ける理由(2019)

   

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まず、わたしの人生は生まれた時から『旅をし続けなくてはいけない』と定められている。

わたしの地元はある小さな小さな集落で、限界集落に指定されている地域である。保育園に通うのも、1つ山を越えて、隣のまだマシに栄えている集落へ通っていた。

小学校に上がるとき、集落唯一の交通手段であったバスが利用者が少なく採算が取れないという理由で廃止。当時集落のこどもたち合計4人(わたしと近所の3人兄弟)は通学手段を失った。親も 山を越えて毎日車で1時間かけて仕事に行かなくてはならなくて、子供の送迎をしている余裕はない。困り果てたわたしたちは村の教育委員会に相談し、無事援助を得て、小学校から中学卒業までの 9年間タクシーで通学した。

高校は、もちろん通える距離には存在しない。隣のまだマシに栄えている集落の子供達も、高校からは下宿をするか、先に村を出た兄・姉と共に同居するか、もう家族ごとよそに引っ越すか。とにかく15歳からは親元を離れることが当たり前で、そして私たちの世代には大人になって集落に戻ってきても生活していくことが難しいんだろうなというのはなんとなくわかっていて、この時から”自分の第2 の居場所と生きていく術を身につける旅”に強制的に排出されたのである。

 

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高校に入学して、まずカルチャーショックを受けたことは、みんな実家から通学していること。

最大の恐怖は電車で、乗り方は一生懸命覚えたけれど、自動改札機が怖くて駅員さんがいる通路しか通れなかったこと。そして、それを同級生に笑われること。

地元から一番近い電車の駅までは車で1時間ほどで、乗る機会なんて皆無だった。スーパーなんてのも、とにかく”なんとかのお店”には、最低親の車で1時間が基本の世界に15年間いたわたしにとって、徒歩3分で大きなスーパーがあって、徒歩1分でコンビニがあって、自分で、好きな時にコンソメパンチを買える下宿生活に、ただただ感動していた。

 

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16歳からのわたしの人生に、普通の人のたくさんの当たり前が、ジェットコースターの波に乗って、 すごい勢いで押し寄せてきた。多分わたしの好奇心旺盛さは、この急激な現代文化の襲来に開花されたものだと思う。

そんな急激な現代文化の襲来を受ける中、突然先輩に『BUMP OF CHICKENのライブチケットが1枚 余ったから、一緒に来る?』と誘われ、千葉県は幕張メッセという、それはとてもとても大きなホー ルで、人がたくさんいるところへ連れて行かれることになる。(わたしが下宿していた地域からは、 新幹線の終電に駆け込めば夜に終わるライブからも日帰りできる距離だった。)

ライブが超楽しいということと、東京(幕張は千葉だけど)に行く方法を学んだわたしは、その夜から一転、味をしめたように遊びに行くようになった。水族館でバイトして稼いだお金を握りしめて。 新幹線は高いけれど、鈍行なら安く、片道2時間で東京に行けるのだ。なんでも車で最低1時間の世界 で生まれ育ったわたしには、2時間は全く遠いの部類に入らない。そうやって、気づいたら交通機関の使い方もマスターし、自動改札機恐怖症も克服し、どこでも自分で行けるようになっていた。

 

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高校3年生、進路を決める時期。親に『とにかく4大は卒業しなさい』と言われていたわたしは迷わず 美大を希望していた。ここまで触れていなかったが、物心ついた時からずっと絵を描くことが大好きで、何もない田舎では紙とペンだけで遊べるということがこの上ない贅沢な娯楽だった。わたしは今 までの人生で絵を描くこと以外を目的の最優先に考えたことがない。

もう1つ、親がわたしに言った一言。 『どうせ大学も実家から通えないのだから、北海道でも、沖縄でも、好きなところに行きなさい。』

新しい旅の選択をせまられる時期が、やってきたのだ。

その言葉を聞いて、最初にわたしは”雪が見たい”と思った。生まれ育った西伊豆はとても温暖で、雪が全く降らないどころか、冬はコートなんてなくてもいいし、日向ぼっこができるほどだった。

そうして東北にある美大を考えていたときに、大学時代を仙台で過ごした父にこう言われる。

『東北の雪は、遊ぶとかいうレベルじゃないんですよ。冷蔵庫にキャベツをきちんと入れておかないと、凍るんですよ。』

それを聞いたわたしは、『それは、いやだなあ。。』と考えを変える。”東京”という選択肢は、”もう 何回も訪れたから”という理由で除外。

どうしようと思っていたときに、大阪出身で京都の美大卒の、通っていた高校の美術の先生に『関 西、面白いし、雪降るよ』と吹き込まれる。『あ!関西、その手があったか!』と、行ってみたい気 持ちも高まって関西の美大のオープンキャンパスに片っ端から足を運び、無事第一志望に考えていた 大学に入学を果たす。1年目の初めての冬にウキウキで雪だるまをつくったが、京都の冬の厳しさを 十分堪能して、2年目からはもう、コタツから出なかった。

 

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そんなこんなで念願の京都での大学生活を堪能しながらも半分が過ぎ、真面目に就職活動をはじめた。実家に戻ってアルバイトをして食いつなぎ、夢を追う、なんて考えは”実家周辺にアルバイトで きるようなお店がない”わたしにとって皆無なのだ。

”イラストレーターになるのは、東京に出ていかなければならない”という固定観念のもと、今度は東京を目指した。東京のことは嫌いではなかったし、友達もたくさん住んでいたから、懐かしさにワクワクしていた。

予定していた企業の面接を何個か終え、泊めてもらっていた友達に『また東京来るね!』と言って京都に戻った、2011年3月10日。朝起きて、予約していた歯医者さんへ向う。待合室でなんとなく携帯 でtwitterを見ていたら、太平洋側が真っ赤に染まった日本地図の画像が流れてきた。

2011年3月11日。東日本大震災が起きた。

その日から、持っていた固定概念だったり、信じていた一般常識と呼ばれるものたちが全てがひっくり返った。ただ与えられた情報を鵜呑みにしていてはいけない、自分で調べて、納得して、行動していかなければいけない世の中だったんだと、気づいた。

大混乱の中、就職活動は一時中止。東京に行くことも、それが”自分にとって正しいことなのか”、い ろいろと考えはじめた。でも答えがずっと出ないまま、なんとなく眺めていた大学の求人掲示板で、 自分の大学で新設されたマンガ学科副手の求人に目が止まった。応募してみたところ、出身学科と分
野が似ていたためなのか、採用してもらえることになった。契約職員として、また3年間、京都と大学に残れることになった。

その3年間で、社会人としての基礎を学ばせて頂き、自分自身のイラストレーターとしてのキャリアも、少しずつスタートさせていった。”東京にいなくてはいけない”ということは、ないんだなということに気づき、私の”自分の第2の居場所と生きていく術を身につける旅”の選択範囲は格段に広がった。

最後の年に、京都はもう長くいたし、そろそろ次の場所を居場所を探すために旅に出た。なんとなく気になった沖縄、直島。とても美しくて、感動したけれど、ピンとこなかった。

しかしある日、本屋で偶然に手に取った本をきっかけに『オペア留学』の存在を知る。『オペア留学』とは、ホストファミリーの家でホームステイをしながら、主に子供達の世話、簡単な家事のお手伝いという”お仕事“で現地収入を得つつ、学費補助も得て語学学校にも通うことができる国際交流プログラムだ。ある日本人女性のアメリカでのオペア留学体験記が書かれた本に、偶然出会ったのだ。

海外留学という夢は描いたことはあったけれど、金銭的に無理だと、頭の片隅に追いやっていた。でも、この方法なら自分の貯金内で行くことができる!海外に出る恐怖心より、大きすぎる好奇心が余裕で勝ち、すぐ準備に取り掛かり、思い切ってアメリカに旅立った。

 

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その経験は、16歳の時に押し寄せてきたジェットコースターの波を遥かに超えた、ものすごい衝撃 だった。日本という国は、世界地図で見ると、まるでわたしの地元のような”小さな世界”だったとい うことを思い知る。そうして、自動改札機が怖くて、押しボタン式信号機の存在を知らず、ずっと赤
信号の前で立ち往生していた16歳の少女は、9年後、飛行機に乗って海外へも1人でいけるように なったのだった。

アメリカでの短い留学を終え、日本に戻った私は、周りと価値観がずれてしまっていたことと、肥大 しまくってしまった好奇心の塊を持て余して、鬱憤とした毎日を過ごしていた。京都のアパートは引き払ってしまっていたし、一時休戦場所として地元に戻っていたが、結局はまたここから出て”居場 所”を新たに見つけなくてはいけない。

それだったらと、もう一度海外に行くことを選んだ。今度は長く住むことを視野に入れて。リサーチにリサーチを重ねて、目指す場所は、国際都市でアートが盛んで、他のヨーロッパの国にもアクセスしやすいドイツ・ベルリンに決める。

 

 

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国際都市だから英語が通じるとは言っても、長く住むことを考えると当然ドイツ語の勉強も必要になってくる。ということで、以下の計画を立てた。

1年目はオペアvisaで、もう一度オペア留学をし、今度はドイツ語の学習に専念する。 2年目はワーホリvisaで、現地のクライアントの獲得に奮闘し、 3年目以降は、アーティストvisaを申請しよう。

そしてもう1つ、決まり事をつくった。 『私がこれからすること、していることの記録をブログに文章として残していくこと。』

アメリカから日本に帰国している間、自分の想い・考え・経験をうまく人に伝えられなくて、時には誤解も産み、とても悔しい想いをした。わたしは視覚や感覚を組み込んで絵に落とし込んでいくことは得意だったけれど、口下手だし、文章として構築して伝えることが、まるでダメだった。絵だけで伝えることの限界を知った。

今度こそは誤解を生まないためにも、一つずつ文章で記録を残していこう。これが、わたしが文章を書き始めたきっかけである。

こうしてコツコツとブログを書いているうちに、気付いたら読者数も増えていき、気付いたら、本当にありがたいことにドイツ 大使館が運営する公式webマガジン”Young Germany"で 『オペア留学』についての連載を持つことになっていた。

 

 

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さらに読者が増え、気付いたら企業からも執筆を頼んで頂けるようにもなった。

そして1番驚いたことは、わたしの記事を読んで実際にドイツに来てくれた人たちも現れたことだ。 オペア留学は日本でまだまだ知られていない方法で、海外に行きたいけれど金銭的に難しいと諦めて いたわたしのような人たちに、この情報を届けられたこと、そして行動を実際に起こしてくれたこと が本当に嬉しかった。

そこから『オペア留学』に限らず、自分の経験を文章に起こすようになった。それが、誰かの何かのきっかけになるなら、と。

3年目の2018年夏、目標にしていたアーティストvisaも無事2年分取得する。

さらに2年ベルリンに住むことができることになった。相変わらず、わたしの人生の大半は”旅”で成 り立っている。この経験も『オペア留学』の時のように発信して、誰かの何かのきっかけになれば と、絵を描きながら旅をする” KiKiTRiP MAG" を始めた。見たものをもっとダイレクトに伝えられた らと、映像も一緒に。

 

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ただ一人でこのプロジェクトを続けていくことに限界を感じ、どうしたらいいのだろうと、協力してくれる企業と資金調達先を探した。またリサーチにリサーチを重ねていると、1つ、とても気になる企業に出会った。ただ残念なことに、動画の件はうまくいかなかったが、代わりに旅先を取材して文章を書くお仕事を頂けるようになる。

それが今でも、本当に大変お世話になっているSAGOJOさん。

実はこれが初めて編集者の方と一緒に文章を書いていく経験で(今までは広報担当の方とのやりとりはあったが、編集者の方とのお仕事は初めてだった)、原稿の修正とアドバイスをしてもらえること、 一緒に仕事をしてくれる人がいる安心感とサポートにとても感動した。マンガ学科で副手として働いていた頃に、遠くから見守っていたマンガ家の卵と編集者さんの2人三脚の様子にちょっぴり憧れも抱いていたので、分野は違えど、それが経験できたことに、嬉しくもあった。

と同時に、『文章を書くことを仕事にすること』に明確な興味を抱き、わたしの好奇心がさらに肥大したのだった。

ただ絵と映像に関して大学で学んだが、『文章を書くことを仕事にする』ことについて学んだことがなく、ぶっつけ本番できてしまっている。そこで目に止まった『SAGOJOライタースクール2期生募集』に迷わず応募。メンバーとして暖かく迎え入れて頂き、2018年10月から12月まで、ベルリンと東京という遠い距離ではあるが、オンラインで『ライター』というお仕事について、とても丁寧に教えて頂いた。

もちろん、これだけでは足りないということは自負していて、たくさん文章を読むこと・書くこと・それから変わらず自分という人間を豊かにしていくことの継続。絵だけでは伝えられないものを、文章とともに伝えていける人になれるように。それが2019年の目標。

絵と文章は違うものかもしれないけれど、そこから滲み出す魅力は、その人自身のそのまんまなところは、同じなんじゃないかなと感じている。

 

前置きがとても長くなったが、以上が『わたしが旅をシゴトにしたい理由』である。

わたしの人生には、ずっと”自分の第2の居場所と生きていく術を身につける旅”が付き纏うし、ネタ は常に尽きないし、好奇心も常に育っていく。そうなのだったら、それを活かせる技術を身に付けたいし、それが誰かの何かのきっかけになったり、何かに貢献できるのなら、それはこの上ない幸せだ。

そして、いろいろ挑戦してみたい記事はたくさんあるが、最終的にはわたしが書いた記事を読んだ、例えばわたしのように小さい集落で暮らしている子が、そこから旅立つ時期を迎えたときに、『世界はこんなにも広くて、こんなにも選択肢があるんだ』って気づけるようなものを残していけたら、最高だなと思う。

・・・

それから、これは現代のテクノロジーの進化に感謝していること。

イラストレーターも、ライターも、インターネットとPCがあれば、どこでもできるお仕事で、それは、15歳の時に『もう戻れない』と別れを告げた地元に、もしなにかがあったときに、戻れる方法でもあるのだ。

 

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